小説に興味を持ってから人生が楽しくなった

読書が苦手だった私が、五十歳を過ぎてから、急に読書が好きになった。そのおかげで人生が豊かになった気がする。これからもっと読書が好きになれるように、人生が楽しく豊かになるように

手相からの物語 ストーカー

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 高い位置から出て長い感情線を持つ男、安達信一郎の恋愛の話です。
 信一郎の手相は感情線が長く頭脳線が短いのが特徴で感情が強い人です。感情線が高い位置にあるので感情のままに即行動するタイプです。
 感情がポジティブに向かっている時は、仕事でも恋愛でも情熱的で行動力があり、きっと素晴らしい結果を残せるでしょう。
 しかし、感情がネガティブになってしまうと冷静な判断が出来なくなり、悪い方向へドンドンといってしまいます。
 感情線から下向きの支線が出ているのは、本来優しい心の持ち主なのですが、ストーカー線などと呼ばれたりしています。感情線の下向きの線が落ち込みやすい面がある為だと思います。

 
 ① 告白

 安達信一郎は好きな女が出来ると、その気持ちを抑えることが出来ない。スーパーサワダで働くようになって、惣菜担当の宮崎祥恵という一つ年上の女に恋をしてしまった。

「宮崎さーん」信一郎は仕事が終わり駅へ向かう祥恵を全速力で追いかけて声を掛けた。
 祥恵は自分の名前を呼ぶ大きな声に驚いて振り返ると、街灯が少なくて薄暗くなった線路沿いの道を大股で走ってくる男の姿が目に飛び込んできた。男はあっという間に祥恵の前までやってきた。
 男は大きな胸を手で抑え肩で息をし、浅黒い顔から白い歯を覗かせていた。祥恵の華奢な体の倍ほどある体格は職場でも目立っていたので、すぐに誰だかわかった。
「え、えーと、鮮魚の安達君?だっけ」と祥恵は少し後ずさりして首を傾げた。
「ハァーハァー、あっ、はいそうです。鮮魚の安達です。ハァーハァー、す、少しお時間いいですか」信一郎はそう言ってから息を整えた。
「あっ、うん」祥恵は、息を切らして少し苦しそうにしながらもさわやかな表情をしている信一郎を見て口元が緩んだ。
「俺は宮崎さんのことが大好きなんです。付き合ってくれないですか」直立不動になり祥恵の目をじっと見つめた。顔は少し紅潮し汗ばんでいたが、さわやかな表情を崩すことはなかった。
 

 ② 返事

 恋愛には慎重でおとなしい祥恵は、告白されてから返事は待ってもらっていた。思いもよらない職場の後輩からの告白に戸惑っていた。信一郎と始めて話をして好感は持てたが、信一郎のことは、ほとんど何も知らない。好きと言われて悪い気はしないが、信一郎も自分のことをさほど知らないはずなのに、という不安もあった。しかし、彫りの深い顔と頼りがいのある男らしい体格、大きな声で明るい信一郎に気持ちは少し傾いていた。

「宮崎さん、今日の帰りお茶でもしませんか」
 一週間経っても返事をもらえていない信一郎はしびれを切らし祥恵を誘った。
「あ、うん。今日は早番だから大丈夫よ。終わったら駅前のカフェでいい?」
「はい、そこで待ってます。この間の返事聞かせてもらえますか」信一郎は目を輝かせて言った。
「あっ、うん」祥恵は小さく頷いた。

 信一郎は仕事を早く終わらせて駅前のカフェに到着した。アイスコーヒーの注文を済ませ席まで運ぶ途中に、カフェに入ってきた祥恵の姿を見つけた。
「宮崎さん、ここでーす」信一郎はテーブルにアイスコーヒーを置いて、祥恵に向かって手を上げた。
 祥恵は視線を信一郎に移し、そんな大声出さなくてもと思いながら、ひきつった笑みを浮かべた。

「すいません、急に誘ったりして」膝に手を置いてペコリと頭を下げた。
「大丈夫よ、今日は仕事も暇だったし、この後、特に用もなかったし」
「それは良かったです」もう一度ペコリと頭を下げた後、すぐに本題に入った。「ところで、この間の返事、聞かせてもらえませんか」信一郎は前のめりになり祥恵の顔をじっと見た。
 祥恵は背筋を伸ばし背もたれに背中をつけてミルクティに一度視線を落としてから信一郎の顔を見た。
「うーん、付き合うというか、友達からでいいかな? あたし、安達君のことあまり知らないし、安達君もあたしのこと知らないでしょ」そう言った後ミルクティを口に含んだ。
「あっ、はい、わかりました。でも前向きに考えてもいいですよね」
「そうね、とりあえず友達として仲良くなりましょ」祥恵はニッコリと笑みを浮かべた。
「はい」信一郎は目を輝かせて、膝の上で拳をぎゅっと握り何度も頷いた。「俺、宮崎さんを絶対幸せにします」そう言って大きな右手の平を祥恵の方に向けた。
 祥恵は少し戸惑い圧倒されながらも可笑しくなり、信一郎の右手の平に自分の小さな右手をパンと合わせた。


 ③ 相談

「明日の休みは車で遠出しようか」信一郎は職場以外では祥恵に、ため口で話せるようになっていた。
「あたし、新しく出来たショッピングモールに行ってみたいんだけど」
「わかった。じゃあ、そうしよっか。天気も悪そうだし、その方がいいかもな」
「明日、相談したい事があるから、その後あたしのマンションに来てほしいんだけど。大丈夫かな」
「あっ、いいけど。相談って、何?」
「あっ、う、うん、明日話すわ。ごめんね」
「あ、あー、わかった。じゃあ夕食は祥恵の手料理が食べたいな」おねだりするような口調で首を傾けた。
「フフフ、じゃあ、頑張ってみるわ」祥恵はニッコリ返した。

「やっぱり惣菜担当だけあって祥恵の料理は旨いわ、最高。結婚したら毎日こんな料理が食べられるなんて幸せだろうな」洗い物をする祥恵の後ろ姿に向かって言った。
「フフフ、毎日これだけ手の込んだ料理は作れないけどね。今日は始めて信ちゃんに食べてもらう手料理だから張り切っちゃった」祥恵は振り返り肩を上げて舌を出した。
「よーし、今度は俺が魚釣ってきて、それをさばいてお造り食べさせてあげるよ。こーんなでっかいの釣ってくるよ」両手を目一杯に、ありえない大きさに手を広げて表現した。
「フフフ、うん、楽しみにしてるわ」食器を洗い終わった祥恵は信一郎の前に腰を下ろしていた。
「その時は一緒に釣りに行こうよ。そうだ、そうしよう」
「あたし魚釣りは経験ないけど大丈夫かなぁ」
「大丈夫、俺が教えてやるよ。釣れた時のひきは最高だよ。絶対、祥恵も釣りにはまるよ」
「フフフ、信ちゃんといる時は楽しいし幸せだし、気持ちが安らぐんだけどな……」祥恵はそう言ってから、急に表情を曇らせ唇を噛んだ。
「どうしたの、急に元気なくなったよ、なんか相談があるって言ってたよな」
「あ、う、うん……」祥恵は俯いたまま黙りこんでしまった。
「どうしたの」信一郎は祥恵の隣に移動して座り、祥恵の肩に手を置いた。
「あのね、一週間位前なんだけど」祥恵は顔を上げて信一郎の方に視線を向けた。
「あ、あー、一週間位前にどうしたの」
「うん、夜になると変な電話がかかってくるの」
「変な電話?」信一郎の眉間に皺が寄った。
「うん、最初は無言だったんだけど、『どちらさまですか』て訊いたら、『祥恵~』て言うの。それで怖くなって……、その時はすぐ電話切れたんだけど、それからも電話がかかってくるの……」
「なに、それ? 男かよ」信一郎は左手でテーブルをパンと叩いた。
「うん、男の人だけど……」祥恵は肩をすくめた。
「心当たりあるのか」信一郎は睨み付けるような目をしていた。
「全然わからない」祥恵は首を横に振った。
「フゥー」信一郎は怒りを堪えようと下を向いた。何に対する怒りかがわからなかった。得体のしれないストーカーと祥恵の過去の男関係などが頭をグルグルと回った。
「あたし怖くなって、玲奈に相談したら、心配だからって泊まりに来てくれたの」
「玲奈ってグロッサリー担当してる大沢さんだよな」
 信一郎は玲奈の名前を聞いて、少し冷静になれた。玲奈は同じ職場で明るく優しい娘だ。入社したてで戸惑っている信一郎にも優しく声を掛けてくれていた。
「そう、大沢さんは、あたしと同期で仲良しなの。面白くて明るい娘よ」
「大沢さんが泊まった日はどうだった?」
「うん、その日も電話があったけど、無言ですぐに切れたの。次かかってきたら、玲奈が、自分が出て文句言ってやるって言ってくれてたけど、その日はそれっきり電話は無かった」
「大沢さんて体小さいけど気は強そうだよな」
「うん、玲奈はすごく強いし元気な娘よ。それで、次の日も玲奈は泊まりに来るって言ってくれたんだけど、玲奈も忙しいし危険な目に合わせられないし、後は自分で何とかするからって断ったんだけど……、それから夜は携帯の電源切ってるけど……、でも、これからどうしていいかわからないの。で、信ちゃんに心配かけたくなかったんだけど……、信ちゃんしか頼る人いなくて……、今日はごめんね」
「なに水くさいこと言ってんだよ。もっと俺を頼ってくれよ。俺は祥恵を守りたいし、俺も心配だよ」
「ありがとう」祥恵は信一郎の肩におでこをあてた。
「声に聞き覚えはないのか」
「小さな声だったからわからなかった」
「お客さんかな。祥恵はお客さんに人気あるし」
「うーん、電話番号を知ってる人いないと思うんだけど」
「とりあえず、今日は俺が泊まってくよ。もし電話がかかってきたら二度と電話するなって怒鳴ってやるよ」
「ありがとう、今日はゆっくり眠れそう」
「けど、俺が寝かさないかもな」信一郎はにやりと鼻の下を伸ばした。


 ④ ストーカー

 とりあえず二人は早めに風呂に入ることにした。信一郎は、自分が入っている間にストーカーから電話があるといけないから一緒に入ろうと迫ったが、祥恵が拒んだのであきらめた。先に信一郎が入り、後から祥恵が入った。その間に祥恵の携帯が鳴ることはなかった。祥恵の話では、これまでは夜九時を過ぎた頃にかかってきたようだ。現在、夜九時を過ぎたところで、これからが緊張の時間になる。信一郎は深く息を吐いた。
 テーブルの上に祥恵の携帯を置き、二人はそれをじっと見つめていた。信一郎は腕を組み、祥恵は両肘をテーブルについて両手で顔を覆っていた。どんよりとした空気が流れていた。
「毎日電話があったのかよ」
「うん……」祥恵は顔を覆ったまま頷いた。
「うーーん」信一郎は腕を組んで天井に視線をやった。「絶対、許さん。今日でけりをつける」そう言ってから携帯に視線を戻した。
 その時、静まりかえっていた部屋に着信音が鳴り響いた。二人は背筋を伸ばし顔を見合わせた。信一郎は祥恵が携帯を取ろうとしたのを制して自分が手にとって画面を見た。やはりストーカーからのようだ。
「ストーカーなら俺がすぐに代わるから、まず電話に出てくれ」そう言って祥恵に携帯を渡した。
 祥恵は深く息を吸ってから携帯を受け取り電話に出た。「もしもし」蚊の鳴くような声になった。
「……、えっ、あー、……」携帯の向こうから震える声が聞こえた。祥恵は一瞬、呼吸が出来なくなり、胸を手で押さえ、信一郎と視線を合わせてから携帯を渡した。
 携帯を受け取った信一郎は祥恵をじっと見つめてから頷いて祥恵の肩に手を置いた。
「フゥー」深く息をして携帯の画面をもう一度見てから電話に出た。「もしもし、あんた誰?」信一郎は眉間に皺を寄せた。
「えっ……、あ、あんたこそ誰?」ストーカーの声が驚いたように大きくなった。
「俺は祥恵の彼氏だ。これ以上祥恵につきまとうな」信一郎の声は、怒りからか、恐怖からか、わからないが少し震えていた。
「うーーん、……」
「わかってんのかよ、お前は何者だ」信一郎は大声で怒鳴った。
 暫く沈黙があった。電話が切れたのかと思ったが、「祥恵にベランダに出るように言ってくれ」ストーカーの泣いているような震えた声が聞こえた。
「ベランダに? お前はバカか、そんなことさせるか」信一郎が携帯を握りしめたままベランダに向かった。「祥恵は来るな、そこで座ってろ」立ち上がろうとした祥恵を手で制した。
 信一郎がベランダから下を覗くとマンションの道路をはさんだ公園の入口に怪しい人の影が見えた。月明かりがなく真っ暗ではっきり姿は確認出来ないが、携帯を持ってこっちを見てるようだ。
「てめえ、ええかげんにしろ、このストーカー野郎が、さっさと帰れ」その人影を睨みながら携帯に向かって怒鳴った。
「……、ス、ストーカー、……じゃない」
 電話が切れて人影が走って逃げて行くのが見えた。
「フーッ」信一郎も深く息をついて、部屋に入り携帯を祥恵に渡した。携帯が手汗で濡れていた。「よーし、逃げて行ったから、これで大丈夫だろ」
「信ちゃん、ありがとう」祥恵は怖かったからか、信一郎の勇ましさに感動したからか、自分でもわからないが涙が出てきた。
「まだ油断出来ないからな、明日も泊まりに来るわ」信一郎は喉がカラカラになり残りのビールを飲み干し、冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出した。


 ⑤ 別れの時

 その後、ストーカーから電話がかかってくることはなかったが、信一郎は毎日のように祥恵のマンションに泊まりに来ていた。
「信ちゃん、もう大丈夫だから、泊まりに来なくてもいいよ」祥恵は夕食の片付けを済ませ、ペタンと床に腰を下ろした。
「いや~、祥恵とずっと一緒にいたいからな」大きな体を小さなソファに預け両手を頭の上にあげ伸びをした。
「でも、あたしもたまには一人でのんびりしたいしね」首を左右に折り右手で肩を揉んでいた。
「何だよ、それ。俺といるとのんびり出来ないのかよ」
「そうじゃないけど、お互いの時間も大切にしないといけないし」
「お互いの時間を大切にする為に一緒にいるんじゃないか」そう言うとソファから飛び下り、祥恵と膝を突き合わせるように座った「だからさ、これから休みをもっと合わせようよ。最近休みが合わないからお互いが仕事の日は一緒じゃないし、楽しくないだろ」祥恵の小さな肩を大きな手でおさえた。
「シフトはチーフが組んでるから、勝手なことは言えないよ。信ちゃんもチーフが組んでるんでしょ。たまたま休みが合った日に遊びに行けばいいじゃない」祥恵は顔をそむけた。
「それだと今週みたいに全く合わない時もあるだろ。そんなの嫌だよ。だからさ、二人で休みの希望を合わせてチーフにお願いしておこうよ」
「ダメだよ、みんなに迷惑かかるよ」祥恵は眉を八の字にしながら首を振った。
「何だよ、冷たいな。俺と仕事とどっちが大事なんだよ」信一郎はふてくされるように言った。
「そんなの、比べるものじゃないでしょ。馬鹿なこと言わないでよ」冷たい口調になった。
「どうせ俺は馬鹿だよ」信一郎はテーブルを叩いた。
「何よ、その態度」めずらしく祥恵の目がつり上がった。はじめて見せた祥恵のその態度に信一郎はカッとなってしまった。
「休みの日に他の男と会ってんじゃないのか。この間のもストーカーとか言ってたけど、実は他の男と付き合ってたんだろ。電話番号も知ってるし部屋まで知ってるんだぜ。知らない男のはずないだろ」信一郎は立ち上がると冷蔵庫から缶ビールを取りだし一気に飲んだ。「フン、俺は騙されてたんだ。俺が告白した時はそのストーカー野郎と付き合ってたんだ。だからすぐ返事くれなかった。俺とは友達からとか言って二股してたんだ」空き缶を床に投げつけた。
「フーッ、……、何でそんな事言うの。そんなに信用出来ないならもういい」祥恵は俯いて黙りこんだ。涙がポツリと床に落ちた。


「えっ、祥恵、安達君と別れたの?」玲奈が目を丸くした。
「うん、……、これ以上無理みたい」祥恵は玲奈に向けて笑みを浮かべようとしたが、ひきつった笑みになってしまった。
「仲良かったしお似合いだと思ってたんだけど……、フーン……」
「最初は楽しかったけど……、あたしは、男の人にガンガン来られるとダメみたい」
「例のストーカー追い払ってくれたんでしょ」
「うん、その時までは良かったんだけど、その後、束縛がキツくなって一人でゆっくりする時間がなくなっちゃったから。ストーカーの事であたしの男関係を疑ってたみたいだし」
「そっか~、祥恵は安達君に愛されてると思ってたんだけどな」
「愛されてたんじゃない気がするし、あたし疲れた」


 ⑥ 新たなストーカー

 信一郎は祥恵から別れを告げられてから職場での口数も減ってしまった。
「安達、最近元気ないな。女にでもフラれたか」鮮魚のチーフ渡辺浩二は軽い口調で言った。
 信一郎は「そんなんじゃないです」と渡辺を睨み付けるように言った。
 信一郎と祥恵が付き合っていることを知っていたのは玲奈と玲奈の彼氏のグロッサリーチーフの榊原俊介だけだった。
 渡辺は信一郎の態度から図星だったかと、顔を皺だらけにして苦笑いを浮かべた。暫くそっとしておこうと決めた。

 信一郎は祥恵とは、まだやり直せると信じていた。喧嘩しただけで、時間が経てば仲直りできると思っていた。一週間は頭を冷やす為におとなしく過ごそうと決めていた。仕事場で祥恵と顔を合わせても祥恵が途端に俯くので挨拶もしていない。それにもじっと耐えた。
 しかし、信一郎の我慢は一週間もたなかった。別れを告げられてからポッカリ空いた穴が埋まらずに苦しみ、耐えきれず一度電話することにした。風呂からあがり携帯を取り出した。携帯の発信履歴は祥恵しかなかった。それを押して電話をかけた。
「はい、もしもし」祥恵の声が聞こえてきた。
 その声を聞いた信一郎は息が荒くなり生唾を飲んだ。泣き出しそうになり言葉が出なかった。暫く沈黙が続き「どちらさまですか?」と言う声が聞こえて「祥恵~」と叫んで電話を切ってしまった。
 次の日もその次の日も電話をし続けたが、電話が繋がった途端、胸が熱く頭が真っ白になり、なんと言えばいいかわからなくなった。その後、電話が通じなくなった。
 そして、モヤモヤしたまま一週間近くが過ぎてしまった。信一郎は電話ではなく直接会った方がいい、顔を見て話した方が気持ちが伝わるだろうと思い、祥恵のマンションへと向かうことにした。
 祥恵のマンションまでは自転車で10分程だが歩いて向かった。祥恵に告白してから付き合い始めて楽しかった日々を思い出しながら歩いた。もう一度、あの日を取り戻すんだと心に決め空を見上げた。朝からずっと降り続く雨も少し小降りになっているが、霧のような雨が顔に当たる。傘は持っているが、さす気にはなれなかった。
 祥恵のマンションまで30分はかかった。いきなり部屋に行く勇気はなかったので、前の公園から7階にある祥恵の部屋を見上げた。灯りがついていたのを確認して携帯を取り出し祥恵に電話をした。今日は電源が入っているようで呼び出し音が聞こえた。信一郎の携帯を持つ手は汗ばみ、鼓動がはやくなった。着信音は鳴り続けているがなかなか出ない。出てくれないのかとあきらめかけた時、「もしもし」と祥恵の蚊の鳴くような声が聞こえた。
 信一郎は慌て心臓が破裂しそうで「……、えっ、あー、……」また言葉が出なくなった。

「もしもし、あんた誰?」その時、男の声が聞こえた。祥恵には新しい男が出来ていたのかと思って頭はパニックになった。
「えっ……、あ、あんたこそ誰?」
「俺は祥恵の彼氏だ。これ以上祥恵につきまとうな」
「うーーん、……」やっはり男が出来ていたのかと思い、祥恵に問いただしたかった。
「わかってんのかよ、お前は何者だ」男は捲し立ててきた。
「祥恵にベランダに出るように言ってくれ」信一郎は泣き出しそうになりながらベランダを見上げた。
「ベランダに? お前はバカか、そんなことさせるか」男は怒鳴った
 ベランダに人の姿が見えたが祥恵ではなく大柄な男だった。男は携帯を握っていた。
「てめえ、ええかげんにしろ、このストーカー野郎が、さっさと帰れ」ベランダに立つ男の声が携帯から聞こえてきた。
「……、ス、ストーカー、……じゃない」信一郎は叫んで電話を切り小雨の中走り去った。