小説に興味を持ってから人生が楽しくなった

読書が苦手だった私が、五十歳を過ぎてから、急に読書が好きになった。そのおかげで人生が豊かになった気がする。これからもっと読書が好きになれるように、人生が楽しく豊かになるように

塩田武士女神のタクトの表現

女神のタクト

塩田武士さんの女神のタクトを読んで、私が気に入った表現、言い回しを残しただけの記事です。



 快速電車は、ほどよく車体を揺らしながら光のそばを走る。明菜は窓際の座席に体を預け、陽光を照らす海の表情を楽しんだ。

 眼下を流れる鴨川を目で追い、遠くに三条大橋を望む。橋を行き交う人々のさらに向こう側には、北山が悠然と構えている。

 四条大橋の欄干に体重を預けながら、明菜はどこに転がるか分からないラグビーボールのような未来を魅力的に感じた。

 別府が手でメガホンを作り、大声で拓斗を紹介した。

 会議中にもかかわらず、明菜は「ソルマック」の瓶を取り出し、勢いよくふたを回転させた。パリッという音がやけに凛々しく、顔色の悪い大人たちの注目を集めた。

 正面に立つと、甲山を背景にした美しい時計台に目を奪われる。

 一見して三階建てのようだ。正面には幅広い石の階段があり、短い距離を上がると、大きな扉が二ヵ所ある。時の経過が刻まれているが、少しも古びていない。軽装では立ち入れないような厳格なオーラがあった。

 明菜は舞子の砂浜でラフマニノフを聴いていた白石の姿を思い出した。「iPad nano」を器用に使いこなしていた様子が、記憶に笑いの尾ひれをつける。

 あの店で口角泡を飛ばす松浦の姿を思い浮かべると、無遠慮な笑いが込み上げてきた。

「総力戦ですよ」
 大変だと言いながら、松浦の言葉は弾んでいた。

 右手で乱暴に目元を拭ったが、涙は止まってくれなかった。

 拓斗は明菜からもらった缶コーヒーのプルトップを引っ張った。一口含んで目を閉じた。

 彼女は今すべき仕事を頭のメモに並べた。クリアすべき課題が山のようにあった。

「治る病気ではありません」
 しんとした室内に言葉が響いた。明菜は舞子の砂浜であぐらをかいていた白石の姿を思い出した。軽快な素振りは、病魔と闘うイメージと程遠かった。

 太い木のカウンターが店の奥まで伸び、その先にはピアノがある。固定された脚の長い椅子が十脚。カウンターの内側にある三段の棚にはずらりと瓶が並ぶ。青いバックライトが後ろから瓶を照らし、薄暗い店の中で幻想的に浮かび上がる。外とは無縁の、フィクションのような静かな夜を思わせるバーだ。

 拓斗がグラスの中の氷を揺らし、目を閉じた。高く尖った鼻梁が美しかった。

 明菜は照れるようにうつむいた。見上げると目が合い、ほんの少し視線がからんだ。互いに自然な笑みが出た。

 愛は膝丈より短いスカートだったが、ストッキングをはいていなかった。女にとって五つの年齢差は、時に残酷に映ることがある。だからといって、若い娘に嫉妬するほど明菜の根性は歪んでいない。時間の不可逆性をため息とともに呑み込むだけだ。

 思わず和んでしまうほど柔らかい表情だ。両親の愛情をそのまま表すような笑顔に、明菜は感傷から救われる思いだった。

 明菜は保温された毛布の中で全身を伸ばした。カーテン越しの光は既に朝のものではない。

 スーツの上着を脱ぎ、黙々と作業をこなしていく。間近で見れば惚れ惚れするようなプロの仕事であった。暖房の効いていない部屋にもかかわらず、彼の額にはいくつもの汗の玉が浮かんでいる。

「でも、チャンスをつぶしてしもた」
 拓斗は顔を覆って、表情を隠した。胸の中に思い出したくない光景が広がっているのかもしれない。

「よかったら、聞かせてくれへんか?」
「もう時間ないから。それにほんとつまんない話だし」
「聞かせてほしい」
 拓斗は座ったまま、明菜の温もりが残るソファーを軽くたたいた。明菜はうつむいて首を振った。
「話すまで舞台へ上がらんで」
 明菜はドアにもたれ、ヒールを何度が床に打ち付けた。

 乱暴に涙を拭ったが、意思に反して緩んだ涙腺は回復しない。

 不意に抱きしめられた。骨格の違いを感じ、明菜は弱々しくなった全身を拓斗に預けた。拓斗の鼓動は憎いほどに落ち着いている。明菜の感情をせき止めていた薄い板が割れた。彼女は拓斗にしがみついて泣いた。

 拓斗は勢いよく彼女の体を放した。しかし、女の華奢な両肩はしっかりとつかんだままで強い視線を送る。
 二人の視線がこれまでにない密度でからまった。心音が波動となって互いに伝わっていく。目には見えないが強く存在する結びつきが、今の二人にはあった。

 自らに残っていた仄(ほの)かなプライドや相手への配慮を捨て、ただひたすら自分の感情に従順であろうとした。そう思うと自然と彼女の瞼は閉じられた。一瞬にして男の顔が視界から消える。
 明菜が彼の息遣いを肌で感じ取ったとき、いたわるような響きを持つノックの音がした。
 二人はとっさに体を放した。
 明菜は我に返るように目を丸くし、拓斗は続けて男性的な視線を送る。そんな気配を察しているのか、松浦はドアを開けずに静かな声で始まりを告げた。
「マエストロ、時間です」

 西の空に舞台袖へ捌けようとする陽があった。
 夜へと向かうほんの一瞬、頭上の世界は美しい境界の色を見せる。