小説に興味を持ってから人生が楽しくなった

読書が苦手だった私が、五十歳を過ぎてから、急に読書が好きになった。そのおかげで人生が豊かになった気がする。これからもっと読書が好きになれるように、人生が楽しく豊かになるように

小杉健治さんの父からの手紙 表現、描写

 二階の部屋に戻ると、机の上に父の手紙が出しっぱなしだった。手紙を片づけてから、窓辺に寄った。残暑が峠を越し、ひんやりとした風が頬を通り過ぎた。その風に乗って赤とんぼが一匹視界を過(よぎ)った。

 入居者募集の文字の薄くなった看板が空き室が多いことを物語っている。

塀から松の枝を伸ばした瀟洒(しょうしゃ)な家だ。

信勝の声を山部が引き取った。

 ボーイがやって来てグラスに水を注いだ。グラスの水に照明の明かりが反射した。

 それから三十分経って、高樹がやって来た。チェックのブレザーに淡い黄色のワイシャツにシルバーのアスコットタイ。一見不統一に思える着こなしが高樹の彫りの深い顔立ちと不思議な調和を醸し出している。

 高樹がこの超高層ホテルの最上階にあるレストランを好んでいるのは東京の街を見下ろすことができるからだ。今、窓の外には夥(おひただ)しい光が溢れている。車のヘッドライトの明かりが光の川のように蛇行して長く続いている。

「兄さん、どうしたんだ。きょうの兄さんはなんか変だ」
ときたま宙に目を止めている兄の様子を訝(いぶか)った

 全身の血液が脳に集中したような激しい怒りがこみ上げてきた。

 隅のテーブルに向かい合い、届いたコーヒーにも手をつけずに額を寄せ合うようにしての報告を、兄は俯いて聞いていた。
どれほどの時間が経ったろうか。沈黙に耐えきれずにカップにはじめて手がいった時、コーヒーは冷めていた。

「そんな真似するはずないだろう」
と、兄は快活に笑った。が、目が異様に光っていたのを圭一は見逃さなかった。
あの目はすでに覚悟を固めていたときのものだ。

「まったく普段と変わりませんでした。食事もきれいに食べて……」
若い刑事がボールペンを持つ手を忙しく動かしている。

 刑事は聞き漏らしたことがないか探るように腕組みをして考えていたが、腕組みを解いてからきいた。
「あなたはこれまでに高樹さんの部屋を訪ねたことはあるんですか」

 続けようとして、刑事は一瞬ためらいを見せた。
「何か」
「身元不明の死体の中には今のところ該当者はおりません」

 その日は北風の吹きすさぶ寒い日で、犬塚は汚れの目立つコートのポケットに両手を突っ込んだまま、慇懃無礼(いんぎんぶれい)にきいた。
「ちょっと、あなたにお訊ねしたいことがありましてね」
細い目が光った。薄気味悪い。

「きょうお伺いしたのは山部製作所の件で……」
「そのことですが」
すかさず、浅香は麻美子の言葉を制した。

 無念の思いで麻美子は引き上げた。
辺りは暗くなり、落日の早さに麻美子は驚かされた。季節の移り変わりは早く、瞬く間に秋が深まっていくようだ。

 出所したばかりの人間が訪問すれば金の工面に来たのかと勘繰られるかもしれない。そう覚悟しながら、クリーニング店を訪れた。声をかけたが、喉の奥にひっかかったような声だった。奥から出て来た長兄は圭一の顔をじっと見つめ、ようやく圭一と認めたようだった。

 半ば予想していたことではあったが、落胆の音が胸の底で鳴ったような気がした。

 糸のように頼り無い可能性にかけていただけに、閉ざされた道に無念の思いを噛みしめた。

 濁ったような茜色に染まった夕暮れの空を見ていた。だんだん闇が茜色に浸食していく。あの闇の色に溶け込んだように高樹との縁も消えていく。

 山部の姿が視界から消えても、麻美子はすぐに立ち去ることが出来ずに、そのまま誰もいない階段を見つめていた。

 麻美子は起きたときから頭が重く、胸の辺りにも何かが張りついたような鬱陶しさがあった。

 麻美子は嗚咽を堪えた。伸吾が窮地に立たされているのがよくわかる。

 おかゆを作って母に出したが、茶碗に半分も食べなかった。麻美子も喉に悲しみと不安が固まって食べ物を受け付けなかった。

 ほつれ毛が口元にかかるのが痛々しい感じだった。だが、それは壮絶な美しさに溢れ、気高さのようなものを感じさせた。

「教えてください。誰なんですか、あの男は?」
「今の名は竹村伸吉だ」
「竹村伸吉……」
圭一はその名を記憶に刻むように呟いた。

 インターホンで来訪の目的を告げたとき、しばらくの逡巡があったのは、記憶を呼び起こす時間だったようだ。彼女は玄関のドアを開けてくれた。

 首筋を走った風の冷たさに旅愁を覚えた。

 雑木林の中にふと出現する芸術的な建物の看板には美術館の文字が見え、あるいは洋館の建物が珈琲店だったりする。和風の家と芸術的な建物が見事に調和した街並みは心を落ち着かせた。文化の香りの漂う町という印象だ。

 ペンションが見つかった。丸太を積み上げた壁は山小屋のような雰囲気だが、中は明るい色調で、美術館のような雰囲気のロビーには絵が飾ってある。

 麻美子は緊張して喉にひっかかるような声を出した。

 右手にタクシー乗り場。左手にバス停が並ぶ。駅前に商店街がまっすぐ延びている。商店街でまっさきに目立つのはファーストフードの店。駅前ではチラシやティッシュペーパーを配る男女が通行人に手を差し出している。

 ママが緊張感を解いたようにため息をついた。

「今がどうかってことだ。この女性だって、いろいろ苦労してきているようだ。おまえが立ち直るには格好のひとだと思う。まあ、すぐにとは言わん。考えてみてくれ。この写真は持っていろよ。名前は……」
叔父は再び写真を寄越し、女性の名を告げたが、圭一の耳を素通りした。

「なぜ、今になって父親に会いたくなったんだ?」
圭一の声が潮風に流される。胸の底に深く響くような声だ。

「どうして何も言ってくれないのですか」
麻美子が圭一を責めるように言った。しかし、圭一は黙して語ろうとしない。全身から針のような鋭いものを突き出して麻美子を寄せつけまいとしているような感じがした。

「どいてください。もう私ひとりの考えで行動します。所詮、あなたとは立場が違うのですから無理だったんです」
麻美子が突き飛ばすような言葉を吐き出すと、圭一は暗い顔で言った。
「犬塚は殺されたんだ。俺に」

 真っ暗闇の空間に逆さまに放り込まれたような衝撃から我に返るのに時間がかかった。

 朝陽の陰になって暗い圭一の背中が一瞬溶けて消えてしまいそうな気がした。

 激しい想いが水が低い所に流れ落ちるような勢いで押し寄せてきた。自分がほんとうに彼女の幸福を守ってやろうとするのなら、俺は立ちすくんでいないで早く社会に向き合うべきではないのか。

 インターホンを押すと、扉が開き、歌子が顔を出した。
「どうぞ。誰もいないわ」
圭一を見て、目を見張ったあとで歌子は言った。
「ここでいい」

 麻美子は地味な服装で、黒い縁の眼鏡をかけ、髪も後ろにたばね、わざとやぼったい格好をしている。それでも、さりげなく全身をなめまわしていた男の視線が胸元で止まった。不快感に襲われながら、麻美子は笑みを作った。

 門を出ていこうとして、後頭部に痛いほどの視線を感じた。振り返ると、事務所の二階の窓に人影が見えた。先日のように、桐原が覗いていたのかもしれない。

 電車の中でもふたりは互いに口をきかなかった。他人の視線を気にせず、麻美子は信勝の腕にしがみついたまま電車の振動に身を任せていた。

 信勝の目に妖しい光が射したように感じた。かつてない目の光に男の匂いが漂っているのを感じた。
麻美子は無意識のうちに目を閉じ、信勝の荒々しい息づかいが近づく気配を感じ取っていた。

 圭一母子のために秋山家を追い出された女が目の前にいる。胃が激しい刺激を受けたように痙攣し、そのたびに苦いものが込み上げてきた。

「いつか、あなたが来るんじゃないかって和夫もみどりさんも言っていたわ」
おう言うと、顔に諦めと色を浮かべて、兄の働いている会社を教えてくれた。説明する登美の顔に、腹を据えたような凄味が感じられた。

 作業服の男が近づいて来た。圭一が立ち上がって迎えると、その男は途中で足を止め、かぶっていた帽子をとった。白髪が多くなり、苦悶そのもののような顔の深い皺が実際の年齢以上に兄を老けさせていた。その姿から、圭一はこの十年間の兄の苦悩の日々に思い至り、胸にわだかまっていた諸々のことが一気に溶けていくのを感じた。
激しく取り乱すかと思った再会は静かな出だしではじまった。
「ひさしぶり」

「だいじょうぶだ」
そう言って兄は芝生のところに行った。冬の陽射しが弱々しく当たっている。

「可愛いさ。あの子のために……」
兄は言葉を呑んだ。あの子のために罪を犯したのだと言おうとしたのか。

 麻美子は恨めしげに玖村の顔を見た。まるで、全身に毒をはらんでいるようだ。信勝も言葉に詰まっている。

 でも、手紙には何も触れていなかった。そのことに気づいたら、疑問を持ったんだ。父さん、ほんとうに今の俺たちを見ているんだろうかって」
積んである荷物が崩れ落ちるような激しさで信吾の声が麻美子の耳をつんざいた。さらに砂地に立ったような不安定な気持ちになった。
その後、信吾とどういうやりとりをしたかあまり覚えていない。信吾の言葉が頭の中で渦を巻いていた。

 圭一からの返事はなかった。無言がすべてを物語っていた。

 翌日も伸吉は職安に行き、求職情報を探した。職安にはリストラされたひとが大勢いた。虚ろな目、血走った目、冷めた目など、さまざまだ。
自分はどんな目をしているのか。

父からの手紙

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