小説に興味を持ってから人生が楽しくなった

読書が苦手だった私が、五十歳を過ぎてから、急に読書が好きになった。そのおかげで人生が豊かになった気がする。これからもっと読書が好きになれるように、人生が楽しく豊かになるように

有川浩さんの県庁おもてなし課の表現、描写

有川浩さんの県庁おもてなし課から学ぶ、小説の表現、描写

 おもてなし課が発足して一ヶ月、ああでもないこうでもないと会議がワルツを踊っていた中でそう言い出したのは、掛水史貴である。

 掛水はその番号に電話を掛けた。
 数回のコールの後、電話に出たのは眠たげに嗄(か)れた男の声だった。

嗄れた声とは
声がかすれた感じ。しゃがれ声。

「ええと、分からないというのはどの辺りが……」
「観光特使って制度の実効が」
 いきなり横っ面をはたくような疑問が来た、と思うや吉門はだるい口調はそのままに、掛水が即答できない質問を次々投げた。

「あの……掛水さんに、吉門さんから……」
「あ、はい!」
 思わず声が上ずった。
 散々耳に痛い指摘を聞いたのは、ほんの数十分前だ。
 まだ何かあるのか、と周囲も気配を尖らせているのが分かる。

 構えていたせいで掛水は打って響けなかった。咀嚼するまでに時間がかかって固まる。

 内心で焦りが気持ち悪いような渦を巻いたが、吉門は掛水を解放しようとしない。

「あの、それ私のなんですけど……」
 怪訝そうな声に振り向くと、ジーンズ姿の若い女の子が立っていた。後ろでくるりとお団子にした髪が爽やかな印象だ。

 お先です、と自転車を漕ぎ出した彼女に、掛水ははっとして声をかけた。
「ごめんなー!」
 ちりりん、と軽く鳴らしたベルと一緒に振り向き加減の会釈。

「それにしてもあの人らぁは……」
呟きの後半は飲み込む。ーーよく飲み会なんかする気分になるなぁ、こんなときに。

 吉門は溜息を吐(つ)いた。その息が語っている。曰く、ーー処置なし。

 その意見が到底県民の前で口に出せるようなものではない、と。
 なら何故言う。掛水の内心では苛立ちが渦巻いている。

 台詞の途中で民宿の彼女は愛想のいい笑顔をかなぐり捨てて眦(まなじり)を吊り上げたのである。

 しかし、民宿の彼女は多紀の抗議など噛み砕くような勢いで叫んだ。
「今さら県庁がうちの父に何の用で!」

 ピシャリと音高く閉められた戸は、敵意を雄弁に語っている。

 最初のお愛想など記憶から吹き飛んだ。こちらを射抜くきつい眼差し。まるでネコ科の肉食獣のような。
 刺さるような敵愾心とともに、佐和の印象は強く残った。

 名刺を受け取った和政がそれをやや遠くに持って眇(すがめ)になった。もう老眼が始まっている。

眇(すがめ)とは?
片目や斜視などの目。
意識的にひとみを片寄せた目。横目。

「お前が名刺を受け取ったがは喬介の名前を出されたからか」
 下げようとした茶托が手元で踊ったことが返事になった。言葉が何も出てこない。

 そんな当たり前みたいに言われても、こればかりは掛水も不服だ。そんなのあっさり分かる人なんて滅多にいませんよ、と口に出さないが代わりに唇を尖る。

 岩の合間に忍び込んでいるような浜には、嵐の名残をとどめて白く泡立つ荒波が打ち寄せていた。
 グレーの雲が空に居残り、潮の細かな粒子を含んだ風がいつの間にかしっとり服を湿らせる。

「でも、そんな言い方……」
 思わず反芻した多紀に、吉門の苦笑が重なる。
「勘弁してやって、佐和は口が裂けても県庁の奴を『優しい』とか『お人好し』とか言いたくないんだ。だから表現が複雑骨折する

 喬介が荷造りするたびに、家をあけるたびに胸に錐(きり)が刺さったようになる。
 喬介が家にいる日々はいつか終わるのだと。

 宇野と呼ばれたパイロットが喜色を閃かせて掛水に目線を上げる。

 高知は、俺たちは、こんなものを持っていたのだ。
 それは突然目隠しを外されたかのようなーー圧倒的な発見だった。

「明神さんも行っちょくかえ」
 多紀の肩が飛び上がる。
「あ、あの……私はまた次の機会に……」

 居間に戻ってきた清遠は食卓を見て「ほお」と声を上げた。
「ずいぶん豪勢やないか」
 皿鉢が二枚出て、それぞれに刺身と鯖寿司が盛られている。
 汁椀を並べていた佐和の肩が跳ねた。

「かわいいだろ」
 佐和に届かない程度ーー清遠がめくる新聞の音、点(つ)けてあるテレビの音に紛れる程度の小声に、掛水のほうが動揺した。

「明神さん」
「何ですか?」
「俺ら、これからも宿題いっぱいあると思うけど、頑張ろうな」
 多紀は余韻を聞くように一呼吸空けて、それから「はい」と力強く答えた。

 下元の右の目元が痙攣している。ーー下元も怒っていた。沸騰した部下に負けず劣らず、既に怒っていた。

 重たい石を抱かされたような沈黙が長く続いた。

 固まったように動けない一同の中、バネがちぎれて飛んだように多紀が部屋を飛び出した。

「それを喋るな! 黙っちょけ!」
 掛水が怒鳴りつけると、多紀は息を飲んだ。飲んだ息がそのまま嗚咽になる。

「佐和さん」
 呼んだ瞬間、振り下ろされる鞭のような声が多紀の体をすくませた。
「あんたらが佐和って呼びな!」

 獰猛な瞳が敵を決めあぐねるように部屋中の人間を睨む。

 沈黙が物理的な圧迫感を持ったかのように迫り、ますます声を出すのを憚(はばか)らせる。誰も彼もが必要最低限の言葉しか喋らない。

「腰抜けもえいところやにゃあ……」
 漏れた呟きを波の音がさらった。

 疚(やま)しさと後ろめたさと罪悪感が三種混合で沸騰した。

「俺ら、作れるでしょうか」
 弱気が反射のように呟かせた。吉門は突っ放さなかった。
「自信持っていいんじゃないの? レジャーランド高知県とか高知県公式ガイドブックっていうフレーズはシンプルで強いと思うよ」