小説に興味を持ってから人生が楽しくなった

読書が苦手だった私が、五十歳を過ぎてから、急に読書が好きになった。そのおかげで人生が豊かになった気がする。これからもっと読書が好きになれるように、人生が楽しく豊かになるように

甲子園には魔物が棲んでいまーす。

阪神甲子園球場

 ここは高校野球の聖地、阪神甲子園球場。
 黒く光るグラウンドの上に四角いベースがポツン、ポツン、ポツンと白く浮かんで見える。
 本塁から一塁ベースと三塁ベースにむかって光線のように伸びる白い線。白と黒のコントラスト、芸術作品のように美しい。
 視線を外野に移すと鮮やかな緑の天然芝。水を含んだ天然芝が太陽に照らされキラキラと緑を強調して輝いている。
 吸い込まれるような真っ青な空から真夏の太陽がグラウンドを照らし続けた。
 アルプススタンドの上空から筋肉質な入道雲がグラウンドを覗き込む。気まぐれに、太陽を隠しグラウンドに影を落とす。そこに浜風が吹き込んで、一瞬暑さが和らぐ。
 グラウンド全体を見守るように立つ黒いバックスクリーン。
 バックスクリーンの左側には友野高校と港星学院両校のスターティングメンバーが白く浮かび上がっている。右側にも友野高校、港星学院の文字が白く浮かび上がり黒と白のコントラストが美しい。
 右側の友野高校、港星学院の横のスコアの箇所は、今はまだ黒いままだ。
 これから毎年のように、似ているけれど、少し違う筋書きのないドラマが巻き起こり、ここに白いスコアが刻まれていく。

 そして毎年、このドラマを演出するかのように現れるのが、そう、甲子園の魔物だ。

『甲子園には魔物が棲んでいまーす』テレビやラジオでよく耳にする魔物。この試合でも現れるのだろうか? そしてどっちに見方するのだろうか?

 静まりかえったグラウンドに審判が姿を現す。
 初出場の友野高校の真っ白なユニフォーム姿の選手が一塁側ベンチ前に一列に並んだ。少し遅れて甲子園の常連校の港星学院のグレーのユニフォームも三塁側ベンチ前に並んだ。
「よーし、行くぞぉー」
「ウォー」
 両校の選手が声を張り上げてホームベース前へとダッシュして整列した。
 両校乱れなく真っ直ぐに並んだあと、帽子をとり頭を下げ、グラウンドに散った。
《お待たせいたしました。ただ今より……》透き通るような声の場内アナウンスが流れた。
 初出場の友野高校と強豪港星学院の試合、新しいドラマが今始まろうとしている。


初出場で初勝利へ

『全国高校野球選手権大会、二日目第一試合も大詰めをむかえています』
《よばん~、ライト~、大河内くん~》
『守る、初出場友野高校、一点リードですが、九回裏ツーアウト満塁の大ピンチです。そして攻める港星学院にとっては最も頼りになるバッター、四番の大河内君が打席に向かいます。解説の田辺さん、すごい試合になりましたね』
『そうですね。ここはピッチャーもバッターもこれまでやってきたこと全てをぶつけてほしいです』

 友野高校対港星学院の試合。得点は6対5、友野高校が1点リードのままむかえた最終回。
 前評判では港星学院が有利と予想されていたのだが、初回に港星学院のエース宮田の不安定な立ち上がりを友野高校がうまく攻めて5点を先制したのが大きかった。
 その後、港星学院が追い上げるも友野高校が1点リードで最終回までもってきた。あと少し踏ん張れれば友野高校は甲子園初勝利だ。
 しかし、それはそんなに簡単なことではなかった。

『おもろい試合やなぁー。こういう試合こそ、わしら魔物の出番やでぇー。さぁーてと、どのタイミングで登場したろかな。この試合、一段と盛り上げたるでー』

 友野高校二年生、セカンドを守る蓑田は甲子園初勝利を目前にし、緊張し体が思うように動かない。
「フゥー」と息を吐いて、グラブをバンバンと叩いたが、今度は足が震えはじめた。その場でピョンピョンと跳ねてみた。しかし、震えは酷くなり足が地面についている感覚がなくなった。
「やばい、ダメだ~」蓑田は心臓が潰されるんじゃないかと思うくらい苦しくなって胸に手を当てた。
 一塁側のアルプススタンドをみると両手を合わせて祈るようなポーズをする女子生徒、暑いのに学ラン姿の男子生徒、ベンチ入りしなかった野球部員、それらの視線がグラウンドを一段と暑くしていた。
 三塁側アルプススタンドからは大音量で音楽が響いている。
 両方のアルプススタンドから期待と不安がヒシヒシと熱を帯びて伝わってくる。
 
 ピッチャーの間宮は、ここまできたら自分を信じて山崎のミットめがけて投げるしかない。低めに投げれば大丈夫だ、と自分に言い聞かせるようにして目の高さまで持ってきたボールに向かって呟いた。
「絶対に高く浮くなよ」

『田辺さん、間宮君は少し投げにくそうですね』
『そうですね、今日はおさえているとはいえ、強打者の大河内君ですからね。高めは禁物ですし、間宮君得意の低めスライダーも三塁にランナーがいますので、ワンバウンドしてワイルドピッチになるのが怖いですからね。本当に投げにくい場面です』
『三塁ランナーが返れば同点、二塁ランナーまで返れば逆転サヨナラの場面です』

「絶対に後ろにそらさないで、前で止めます。だから思いきり腕を振って低めに投げてください」キャッチャーの山崎はマスク越しに間宮に向かって目で訴えた。
 間宮は山崎のマスク越しの真剣な眼差しを見て、ニコリと笑みを浮かべ頷いた。
「山崎、大丈夫だ。お前のリード通りに構えたところに投げ込むから」
 間宮はゆっくりとプレートに足をおき、両手を胸の前において、「フーッ」と息を吐いた。

『間宮くん、セットポジションから、第一球を投げました』

 山崎の出したサインは低めのスライダー。間宮の投げたボールは山崎の構えたミットめがけて向かっている。スライダーの切れもよさそうだ。
 大河内は積極的に初球から打ちにいく。さすがプロ注目の四番バッター、スイングスピードが速い。

『大河内君、初球から打ちにいったー。しかし、外角のスライダーワンバウンドする球に空振りー。キャッチャーの山崎君もしっかりボールを前に止めたー』
『山崎君、いいですよ。手前でワンバウンドする難しいボールでしたけど、よく体全体でボールを止めました。こういうプレイはピッチャーの間宮君に勇気を与えますね』

 山崎は間宮に向かって何度も頷いてからボールを返した。
「間宮さん、ナイスボールです」
 間宮は山崎からのボールを受け取り、グラブを前につきだした。
「山崎、お前こそナイスだ」

「大河内~、リラックス、リラックスー。力んでんぞー」港星学院ベンチから大河内に向かって声が飛ぶ。
 大河内がベンチの声に頷いてから、ヘルメットのツバを手にかけて深くかぶり直した。バッターボックスに入る前に肩を上下させ「フーッ」と息を吐いた。
 暑い、けど、気持ちいい。この対決を楽しめばいい。
「そうだ。リラックス、野球ができることに感謝して楽しもう」大河内は、そう呟いて、ニカッと笑った。

 このバッターは今日の間宮さんのスライダーには合っていない。甘いコースは禁物だけど、最後はスライダーで、今みたいに空振りがとれるはずだ。後はそこまでどう組み立てるかだなぁ。次はインコースへきわどいところ、ボールでもいい。それをファールにでもしてくれれば、こっちが有利だ、きっと抑えられる。山崎はそう考えて大河内の内角胸元にミットを構えた。

 間宮が山崎のサインをみる。内角ストレートかぁ。デッドボールが怖いな。間宮が一瞬弱気になった。
「間宮さん思いきってインコースへ投げて下さい。ストライクはいりません、ボールでもいいです」山崎はマスク越しに目で訴える。
 
 間宮はなかなか首を縦にふらない。しかし、横にもふらない。しばらく悩んでプレートをはずした。ロージンバッグに手をやってからボールの感触を確かめるように手の中でボールをくるくると回した。

『田辺さん、ここも間宮君は投げにくそうにしていますね』
『そうですね、大河内君は強打者ですから、甘い球は投げられませんし、慎重になって当然でしょうね』

 もう一度山崎のサインを見た。サインは変わらないインコースストレートだ。
「よしっ」間宮は覚悟を決めて首を小さく縦に振った。

『間宮くん、セットポジションに入る、三塁ランナーを見て、二塁ランナーにも目をやりました。大河内くんに対して、足を上げて第二球を投げました』
「絶対に抑えてやるー」
「よーし、打ち返すー」
 間宮と大河内の間でお互いの意地がぶつかり合い激しく火花が散った。アルプススタンドからの声援もピークだ。一塁側は祈るように手を合わせ、三塁側からは声援が飛ぶ。
『インコース、ストレート。少し甘く入ったかー』
 やばい、甘い、真ん中にきた。山崎は一瞬、目を閉じた。
 大河内は獲物をとらえたかのような目をしてバットを鋭く振りだした。
「よーし、もらったー」
 大河内が振りだしたバットはボールを真芯で捉えた。
『カッキィーーン』乾いた金属音が球場内に響いた。
『打った~、痛烈な打球はレフトへーーーー、高く舞い上がったーーー、これは大きい、大きいぞーー、グーーンと伸びる』
 球場が一瞬静まり返った。球場にいる全ての目が打球の行方を追った。打球はレフトスタンドへ向かってグングンと伸びていく。しかし、伸びるにつれて風に流されていった。
『あー、しかし、打球は左へと切れていく~。ファール、ファールだぁ』
「くそーっ」大河内は一塁ベースを回ったところで天を仰いだ。
 静まりかえった球場が、一気にドーッとざわついた。
 間宮は「フーッ」と息を吐く。
「すげぇ打球だなぁ」山崎はマスクをとり、汗を拭う。
 危なかったが、これで追い込んだ。まだこっちにツキがある。山崎は気持ちを切り替えた。
 三球目は高めのつり球で様子をみることにした。山崎の構えたミットにズバッとストレートがきた。
 大河内のバットはピクリともしなかった。山崎は嫌な予感がした。大河内は力みが消えて冷静になってきている。これまでの打席の大河内と少し違う。次の一球、外角スライダーで空振りがとれるだろうか。一瞬悩んだが、他に選択する球は思い浮かばなかった。
 山崎が間宮にサインをおくる。予定通り外角スライダー、低めにくれば大丈夫だ。山崎は低く低くとゼスチャーで示した。
 ピッチャーの間宮はキャッチャー山崎のサインに頷いた。セットポジションに入る。長い間合い。球場が静まり返る。間宮は自分に観衆の視線が集まっているのを感じた。投げられない。間宮は一旦プレートをはずす。
『間宮君、投げられません。エース対四番、九回裏ツーアウト満塁。勝負の一球です』
「ツーアウト、ツーアウト」山崎は声を張り上げ弱気の虫をはねのけた。
 間宮はもう一度セットポジションに入る。
「これまでの全てを出しきる。それだけだ。結果を恐れるな」間宮はそう呟いてから思いっきり腕を振って山崎のミット目がけてボールを投げ込んだ。
 外角のスライダーが低めにくるが、山崎の構えたミットの位置より少し高い。大河内ならバットが届いてしまう。
「やばい」山崎は声をもらした。
 大河内は少し体制を崩されながらもボールを芯でとらえた。鋭い打球が間宮の足元に向かって飛んだ。
『大河内君、打ったー。打球はピッチャー間宮君の足元を抜けるー』
 大丈夫だ、この当たりなら守備範囲の広い蓑田なら追いついてくれる。山崎はそう信じて打球を目で追った。
 セカンドの蓑田は必死でホールを追う。よしとれる。蓑田はそう思った。
 体を低くして土埃をたてながら、ボールの正面に体を滑り込ませた。そして、何とかボールはグラブに収まった。
『セカンドの蓑田君、よく追い付いたー』
 よーし、これをファーストに投げれば、試合終了だ。そして甲子園初勝利だ。
 蓑田はグラブに入ったボールを右手に持ちかえ、ファーストに体を向けた。
 その時だった。
 えっ、うっ、右腕が思うように動かない。投げ方がわからない。ダ、ダメだ、は、早く投げないと、セーフになってしまう。
「ウォーッ」ファーストへ投げたつもりだった。
『あーっと、ボールが大きく逸れたぁー。ファースト光山君、飛びつくが、とれなーーい。ボールはファールゾーンを転々としている~』
 うわぁーっ、や、やっちまった。暴投だ。
『サードランナーが、今同点のホームを踏む、そして逆転のセカンドランナーもサードを回ってホームへ返ってくる~』
『ライトからボールが返ってきた~』
 山崎がボールを取りタッチにいく。
『判定は、セーフ、セーフ、セーフだ~。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラだ~、逆転サヨナラ~。九回裏ツーアウトから港星学院が逆転~。友野高校の初勝利の夢は消えてしまいました~。やはり、やはり、ここ甲子園には魔物が棲んでいまーす』 



野球をやめたい。

「なにー、野球部をやめる、だと~」監督の重光は右手で自分の帽子のツバをあげて、爬虫類のような目で蓑田を睨み付けた。
「は、はい、僕の暴投のせいで甲子園で負けてしまいました。僕がこれ以上野球を続けるのは、先輩達に申し訳ないです」蓑田は帽子を取り直立不動で俯いていた。

『はぁー、こいつ何言い出すんや。そんなことで野球を辞められたら、わしら、魔物が悪者になるんやけどなぁ』

「あれはなぁ、甲子園の魔物のイタズラだ。お前が一人苦しむことじゃない。これくらいのことで野球やめてたら、みんな野球やめないといけなくなるぞ」

『おーっ、監督さん、その通り。よー、わかっとる』
「でも、自信が無くなったんです」

『おい、おい、おい、あれくらいで自信無くすなよ。あんたら野球少年が、わしら魔物のせいで自信なくして野球をやめられると、これから、わしらは出にくくなるやないか。わしらが、たまーに顔出すから野球は面白味を増すんやで』

「たかが、野球だ。怖れず、楽しめばいいんだ。野球にエラーはつきものだし、甲子園の魔物もつきものなんだ。たまたま、お前が魔物に目をつけられただけだ。あの試合、あの時、お前は魔物に選ばれたわけだ。ただそれだけのことだ」重光はそう言ってグラウンドに腰を下ろし胡座をかいだ。
「魔物に選ばれたんですか」直立不動の
まま重光を見下ろした。
「まぁ、座れや」
「はい」
 蓑田は腰を下ろし正座しようとしたが重光から足を崩せと言われ、胡座をかいて重光と向かい合った。
「そう、だから、アハハハハと笑い飛ばしておけ」

『そうそう、いーねぇ、監督さん。監督さんのいう通り。野球を楽しんでくれ。わしらはババ抜きのババみたいな存在やと思って楽しんで笑い飛ばしてくれよ。この試合は俺が魔物に選ばれちまった。アハハハハとね』

「監督、少し考えさせてください」

『おいおい、何を考えるんや。そんな必要ないんやから野球を続けろー。これを乗り越えたら、あんた一段と大きくなれるんやでー。あんたを一段と大きく成長させるために、わしはあんたを選んだんやでー』

「よーし、わかった」重光は立ち上がった。
「好きにしろ」重光はそのまま立ち去っていった。
 蓑田も立ち上がり重光の背中にむかって頭を下げた。
「監督、有り難うございました」

『監督まで、何言ってんのー。バカかー。考えるまでもないってー、続けろー』


ライバル下山

「蓑田、野球部やめるって本当か」
 同学年で同じセカンドのポジション、ライバルの下山が蓑田に声をかけた。

 下山は蓑田の暴投で負けたあの試合、アルプススタンドにいた。サヨナラ負けが決まった瞬間、膝から崩れ落ちて立ち上がることの出来ない蓑田を見てニヤニヤと一人笑っていた。
 山崎に抱えられ泣きじゃくり、アルプススタンドに向かって挨拶する蓑田に、「ふん、ざまあみろ」と呟いていた。

 県大会では蓑田より下山の方が試合に出場していたが、甲子園出場が決まって下山はベンチ入りを外された。
 甲子園のベンチ入りメンバーが発表された帰り道「なんで、俺が外されたんだよぉー」橋の上から川の流れだけが聞こえる暗闇に向かって叫んだ。その叫び声が谷間に響いた後、また、おだやかな川の流れだけが聞こえてきた。その音が自分を嘲笑っているように聞こえた。
「やっぱり、野球部やめようかな。どうせ試合に出してもらえないし」
 空を見上げると三日月も自分を嘲笑ってるように見えた。
「はぁー」一段と虚しくなってため息をついた。
「あの試合のせいだ」そう呟いた。
「送りバントのサインのせいだー」もう一度、橋の欄干を握りしめ暗闇に向かって叫んだ。

 県大会を勝ち進み準々決勝の試合だった。スターティングメンバーに下山は名前を連ねた。あと三つ勝てば甲子園。学校関係者達も、もしかして甲子園初出場の夢が叶うのではないかと、応援に熱が入ってきた試合だった。
 下山の先制タイムリーヒットなどで五点をとり、五対二で友野高校がリードしてむかえた七回裏。
 ノーアウト一二塁のチャンスに下山に打席が回ってきた。この試合二本のヒットを打っていて打撃は好調だ。試合も三点リードしている。ここで一本打てばダメ押し点がとれる。先制点は自分のタイムリーヒットで叩きだした。ここでダメ押し点を叩き出せば学校中のヒーローになれる。
「よーし、俺が決めてやる」
 そう思ってバッターボックスに向かった。バッターボックスの手前まできて、ヘルメットを両手で持ち上げ右腕で汗を拭った。ヘルメットを深くかぶってからベンチに視線をやり、監督のサインを確認した。
 絶好調の俺には、ヒッティングのサインだと思っていたが、監督からのサインは送りバントだった。
 なんで俺にバントなんだ。ベンチの方を見たまま、呆然と立ち尽くし、バッターボックスに入ろうとしなかった。しばらく監督を睨み付けていた。
「打たせてくれ」目で訴えた。
 しかし、監督はもう一度送りバントのサインを出した。
 下山はベンチに体を向けたまま動こうとしない。
 審判に促されてバッターボックスに入った。足元をならして相手ピッチャーを睨み付けた。いつもより腕を高く上げて、股を広げてスラッガーのように大きく構えた。
「バントなんかしない。デカイのをかっ飛ばす」下山は呟いた。
 相手ピッチャーも疲れている。バントでなくここで一気に打ち崩すべきだ。ファーボールの後の初球をとらえてやる。
 相手ピッチャーがセットポジションにはいる。少し間をおいてファーストへ牽制球を投げた。
 下山は大きく構えたまま微動だにしない。
「しもやまー」
 ベンチから声がしたが、振り向きもしなかった。
 相手ピッチャーがキャッチャーのサインに頷き、もう一度セットポジションに入る。ファーストランナーを見て、セカンドランナーもみた。足が上がって初球が投げられた。サードとファーストはバントを警戒して少し前にきた。
 下山は足を高く上げて豪快にバットを振りぬいた。
「よーし、もらったー」
 内角ストライクゾーンから体にくい込んでくるボールに詰まらされたが、ボールは左中間にフラフラと飛んだ。当たりはよくなかったが飛んだコースが良かった。レフトとセンターが懸命に追いかける。
「落ちろー」下山はファーストへ走りながら叫んだ。
 ボールはレフトとセンターの間にポトリと落ちた。
 サードコーチはグルグルと手を回す。セカンドランナーは一気にホームへと向かってきた。レフトからホームにボールが返ってきたが、そのボールが大きく逸れてファールグラウンドに転がった。
 セカンドランナーはホームを踏んでガッツポーズした。友野高校が一点を追加した。下山もセカンドベースまで達した。
 セカンドベース上でベンチにむかってガッツポーズをしたがベンチから下山を見ている者はいなかった。ベンチはホームインした選手とタッチして盛り上がっていた。
「チェッ、なんだよ、俺に感謝しろよ」ベンチに向けて舌打ちした。
 ベンチの方を睨んでいると、控えだった蓑田が出てきて審判に何かを告げてから下山の方へと全力で走ってきた。
「あいつ、何しに来るんだ」

《友山高校のセカンドランナー下山君に代わり、蓑田君。セカンドランナーは蓑田君》
 場内アナウンスが流れた。

「下山、交代だ」蓑田は眉間に皺を寄せていた。
「なんで、俺に代走なんだよ。お前より俺の方が走塁上手いだろ」
「お前がサイン無視するからだろ。みんな怒ってるぞ」
「やかましいわー。クソー」蓑田を睨み付けた。
「お疲れ、早く下がれよ」
「うぁーっ」下山はヘルメットをとって空に向かって声をあげた。
 下山はベンチに戻って椅子を蹴とばしヘルメットを地面に叩きつけた。ヘルメットが鈍い音をたてて転がり椅子の下でクルクルと回っていた。
 キャプテンの野口が下山のところに来た。
「お前、バントのサイン、無視したよな」野口は下山の胸ぐらを掴んでおでこがぶつかるくらいに顔を近づけた。
「す、すいません。無視したんじゃなくて、見落したんです。さっき蓑田に言われて、はっとしました」
 野口は下山の胸ぐらを掴んだ右手に力を入れ、もう一度顔を近づけ、睨み付けた。
「いいや、お前はサインを無視した」
 下山は野口の目を避けるように俯いた。
「すいません。見落しです」
「フン」野口はこれ以上言っても無駄な気がした。気持ちを切り替えて試合に集中することにした。下山の胸ぐらを掴んでいた右手を突き飛ばすようにして離した。下山は後ろによろめいて、その勢いのまま椅子にドンと腰を落とした。
「すいませんでした」下山はみんなに向かって大きな声で詫びたが、誰も下山の方を見ないでグラウンドを見ていた。
 大きな歓声が聞こえてきた。次のバッターがスクイズを決めて一点追加した後、セカンドランナーの蓑田が好走塁をみせて一気にホームに向かいヘッドスライディングした。審判の右手が横にひらいた。
「セーフ、セーフ、セーフ」
 見事にツーランスクイズが決まった。
 蓑田が跳ねるようにしてベンチへとかえってきた。
「蓑田、ナイスラン」ベンチのみんなから声が飛んだ。

「下山、明日からは蓑田を使うからな」監督の重光がグラウンドに視線をやったまま下山に告げた。
「な、なんでですか? 俺は今絶好調なんですけど」
 下山が椅子から立ち上がり重光の隣に来て抗議するが、重光はグラウンドを見たまま、下山の方を見なかった。
「お前の調子なんて知らん。俺はチーム全体の調子を上げたいんだ。チーム全体の調子を上げることが、どういうことなのか、それをお前が理解するまで、俺はお前を使わん」

 それから準決勝、決勝と勝ち上がり友野高校は初優勝したが、下山がその後の試合に出ることはなかった。
 
 アルプススタンドで試合をみながら、甲子園のグラウンドに立つ蓑田の姿を見て涙が出るくらい悔しかった。
 俺の方が絶対うまいのに、なんでセカンドを守るのは蓑田なんだ。
 アルプススタンドからみんなが友野高校に声援を送るなか、一人、友野高校が負けることを願っていた。
 蓑田がミスして、監督が蓑田を選んだことを後悔してほしいと思っていた。そして、その通りになった。甲子園初勝利目前にやつのミスで負けた。下山は思い通りになったとほくそ笑んだ。

「あんな大事なとこでエラーしたから……、俺、なんか野球が怖くなった」蓑田は遠くを見て言った。
「じゃあ、仕方ないな。とめても無駄だろ」下山はニヤリと右の口角を上げた。「さっさとやめろ」と心のなかで呟いた。
 これで新チームのセカンドは俺のものだ、と思った。
「俺は守備が下手くそだから、ベンチ入りは、お前の方が良かったかもな」
「守備かぁ」下山がそう呟いた後、顔を歪めていた。
 なに偉そうに言ってんだよ。守備だけじゃない、バッティングだって走塁だって俺はお前より上だ。
「この下手くそが」蓑田に聞こえないように呟いた。
「何か言ったか」
「いーや、まっ、野球は守りがしっかりしないとな」目を合わさずに言った。
「今まで、ありがとな。お前のおかげで、ここまで頑張れたよ」蓑田は右手を差し出した。
「お、おう」下山も右手を出し握手をした。
 いつもは、ここでお互いに我をはり喧嘩寸前になるのだが、蓑田の元気ない姿に下山は少し戸惑った。
 本当にやめるのか? こいつがいなくなると張り合いがなくなるかもしれないなと、蓑田の後ろ姿を見て思った。


キャッチャー山崎

「蓑田、野球部やめるって本当か」キャッチャーの山崎が声をかける。
「あー、途中で逃げ出すみたいで、ごめんな」
 山崎は、蓑田と同じ二年生で、あの試合にキャッチャーで出場していた。あの試合に二年生で出場したのは山崎と蓑田の二人だった。
 そして新チームのキャプテンは山崎に決まっていた。
 山崎は新チームの副キャプテンに蓑田になってほしいと思っていた。
「ダメだよ、蓑田。やめんなよ。新チームで一緒に甲子園目指そうぜ」
「あんなエラーして……、俺、嫌になった」
「新チームには、蓑田、お前が絶対必要なんだ」
「いーや、俺はもう無理だ。あの試合も下山の方が良かったんだ」
「下山かぁー、あいつは確かに野球センスはあるけど、チームワークを乱しそうだしな。あの試合は負けたけど、俺はお前で良かったと思ってる」


ピッチャー間宮

 蓑田は、あの試合、投げたエースの間宮先輩に詫びに行く。
「間宮先輩、すいませんでした。僕のエラーで勝てなくて」蓑田は直立不動で深々と頭を下げた。
「気にするな。来年はお前達がこの悔しさをバネに甲子園初勝利してくれればいい」
「あっ、は、はい」
「なに? 歯切れ悪いな。俺に申し訳ないと思うんなら、来年は甲子園初勝利を約束しろよ」
「……」蓑田は俯いていた。
「蓑田、まさか責任感じてやめるなんて言うなよな」
「いえ、責任とかじゃなくて……、ただ、野球が恐くなったんです」
「ふん、何甘えたこと言ってんだよ」
「甘えてますか」
「そう、甘えんな。みんな恐いんだよ」
「みんな、ですか」
「そう、だから、練習するんだよ。それから……」
「はい」
「それが、楽しいんだよ。今やめたらもったいない。やっと野球の恐さがわかったところだ。これから本当の楽しさがわかる」
「間宮先輩でも、恐いと思うんことあるんですか」
「そりゃあ怖いよ。あの場面でもストライクが入らないんじゃないかと思ったし、あのバッターのスイング見たらホームラン打たれるんじゃないかと思って投げるのが恐かった。けど、勇気を振り絞って山崎を信じてミットめがけて投げたんだ」
「そんな思いでマウンドに立っていたのに、それを僕のせいで台無しにしてしまいました」蓑田はまた深々と頭を下げた。
「それを言うなって。それが野球だから。恐いけど面白いんだ。だからやめるなよ」
「え、あ、はい……」

『そう、恐いけど面白いんや。それを演出するんが、わしら魔物や』

 蓑田は下山以外のメンバーからはやめるなと声を掛けられていたが、まだ、やめる気持ちが勝っていた。


新チーム副キャプテン

「山崎、新チームのキャプテンは山崎で決まりだ。よろしく頼むな」
「はい、監督ありがとうございます。精一杯頑張ります」
「あー、ただな、キャッチャーでキャプテンと負担が大きいから副キャプテンを決めておこうと思ってな。その相談をしたいんだ」
「僕も監督に副キャプテンの相談をしたいと思ってました」
「そうか、……」監督は腕を組んで、天を見上げた。
「監督、なにか?」
「しかしなぁ、たぶん、新チームの副キャプテンは、山崎が考えてる人物とわしが考えてる人物は違うはずなんだ」
「えっ、そうなんですか。僕は蓑田がいいと思ってたんですが、監督は違うんですか」
「わしは、蓑田じゃないな」監督はニヤリと笑みを浮かべた。
「えっ、監督も蓑田を推薦するものだと思ってました」
「ハハハ、そうか、そうか。でもな、わしは下山がいいと思ってる」
「えっ、し、下山……、ですか。なぜですか。下山はチームを乱しそうで、心配なんですが」
「山崎も蓑田も同じようなタイプなんだ。二人は周りからの信頼も厚い。それはいいんだが、ただな、お前たち二人は少しおとなしい。闘争心が足りないんだ。その点、下山はガッツを前面に出すから、それが下山の魅力なんだ。下山みたいなタイプと山崎が組んだ方が面白いと思うんだ」
「俺、下山とうまくやっていけますかね」
「大丈夫だ。みんな、下山の本当の良さがきっとわかるはずだ。下山は上に立てば、きっと変わる。闘争心を出して、みんなを引っ張ってくれる。お前とも上手くいくはずだ」
「もしかして、蓑田がやめるって言ってるから、副キャプテンから外してるんじゃないですか」
「それはない。最初から副キャプテンは下山のつもりだったし、それに蓑田はきっと続けてくれる」
「蓑田、やめる意思が強そうでしたけど、続けますか」
「大丈夫だ。蓑田は絶対に続ける。わしは、蓑田に最後の刺客を送っておいたから」



最後の刺客


「蓑田くん、野球部辞めるって聞いたんだけど、本当なの」
 先輩のマネージャー板野里美から声を掛けられた。蓑田は里美に憧れていたが、これまでまともな会話をしたことがなかった。急に憧れの先輩マネージャーから声を掛けられて、蓑田の頭は真っ白になった。
「い、い、板野先輩」
「辞めるのもったいないよ。エラーしたくらいで辞めなくてもいいじゃない」
「あ、あ、はい。で、でも、あの試合、僕のせいで負けて、先輩方は引退が早くなってしまいました」
「確かにわたしたちは、あの試合で引退だけど、わたしは、新チームのことも気になるし、お邪魔じゃなければ、ちょくちょく顔出して応援したいと思ってるの。顔出した時にメンバーが一人いなくなってるの悲しいじゃない」
「ぼ、ぼくがいなくなったら、先輩は、か、悲しい、ですか」
「そうね~、だから、また、来年、甲子園で頑張ってる姿みたいから、やめないでよ。ねっ、お願い」
 里美が両手を合わせて首を少し傾げる。そのポーズに蓑田はメロメロになっていた。
「わ、わかりました。ぼ、ぼく、これからも必死で練習して、また甲子園に行きます。絶対行きます。板野先輩を甲子園に連れていきます」
 蓑田は直立不動になり、里美のきれいな瞳をみていた。
「じゃあ、約束ね。今度、気晴らしに遊びに行こうか」
「え、えー、ぼ、ぼくと先輩で、ですか」
「うん、わたし達三年生で野球部の打ち上げやるから、その時においでよ。山崎くんや下山くんも呼んであげて」
「あ、あー、み、みんな一緒に、ですよね」
「なに、みんなと一緒だと不満なの」
「い、いえ、そ、そんなことないですが……、板野先輩と二人っきりかなと、ちょっと思ったもんで……、はい」蓑田は頭をかいた。
「二人っきりで遊びに行ってもいいわよ。その代わり野球を続けること」
「は、はい、野球は続けることに決めました」

『あらー、鼻の下伸ばして。こいつも単純なやつやな。わしら魔物よりも女の魔力の方が強烈みたいやなぁ。まっ、わしらはその程度の扱いにしてくれるのがありがたいわ』



甲子園初勝利へ

「よっしゃー、甲子園やー」キャッチャーの山崎がマスクをとって声を張り上げた。
 ショート下山からファーストへボールが送られるのを確認して、マウンドの佐々木の元に走って抱き合った。
『友野高校が県大会優勝です。見事二年連続で甲子園の切符を手にしました~』
「よーし、約束通り甲子園出場を決めたぞ。次は甲子園初勝利だ」蓑田もマウンドへ駆け寄る。下山も走ってきた。

 先輩達との約束通り、友野高校野球部は二年連続の甲子園を決めた。
 蓑田は去年の借りを返すと心に決めていた。

 甲子園の初戦は三日目の第三試合。対戦相手は名門昌徳高校だ。
 初回に昌徳高校に先制点を許すと四回表にも2点を失い、0対3と苦しい展開になる。
 ようやく六回裏に1点返すも七回表に1点を失い、1対4、3点のビハインド。
 八回裏に四番山崎のツーランホームランが出て2点を返し、3対4で最終回を迎える。
 九回表を三者凡退で退け、残り九回裏の攻撃、友野高校は逆転して甲子園初勝利を狙う。
『九回裏もツーアウト、ランナー無し。あとアウト一つで昌徳高校の勝利です。しかし、得点差は1点。まだ、何が起こるかまだわかりません。解説の沢井さん、九回ツーアウトまできましたが、野球はツーアウトから、まだまだわかりませんよね』
『そうですね。友野高校はまだ諦めてはいけませんよ。そして昌徳高校は最後まで気を抜かないことですね。本当にまだまだわかりません。特に甲子園というところは魔物が棲んでいますからね』
『えー試合やな~。こんな試合みてたら、わしら魔物はウズウズしてくるなぁ。なんか、かき回してやりたくなるなぁ。もうちょい様子見よか』
 ツーアウトランナー無しでバッターは八番の二年生森だ。森は気合い十分に相手投手を睨み付ける。下山譲りの負けん気の強さを見せる。スリーボールツーストライクからファールで粘って九球目だった。
『バッターの森君、外角ストレートにしぶとく食らいついていく。厳しいコースをうまく合わせてライト前ヒット~。森君、しぶとく技ありのヒット~。友野高校まだまだあきらめていませ~ん』
 ツーアウト、ランナー一塁。
 九番バッターピッチャー二年生の佐々木だ。ここまでよく投げてきた。佐々木、なんとか上位に繋いでくれ。
 ネクストバッターズサークルから下山が佐々木に大声で声を掛けている。
「俺まで回せ~。絶対打ってやるから。よーくボールを見ろよ~」
 佐々木も森同様に粘る。スリーボールツーストライクから二球きわどい球をファールにする。そして粘った末、ファーボールを選ぶ。
『佐々木君、よく粘ってファーボールを選んだ。沢井さん、友野高校も粘り強いですね』
『素晴らしい粘りです。今年の友野高校の強さは、地方大会からのこの粘り強さですねー』
『友野高校、地方大会では劣勢から終盤の粘りでの逆転が目立っていました。甲子園でも粘りが出ています』
 粘り強さは今年の友野高校の特徴だ。下山の負けん気の強さとがむしゃらさがチームにいい意味で浸透していった。絶対に負けない、諦めないという強い気持ちをみんなが持つようになっていた。
「よっしゃー、佐々木~、よう粘った」下山が叫んだ。
「佐々木、ナイスだ~」蓑田は手を叩いてネクストバッターズサークルへ向かう。
 下山がバッターボックスに向かう前に蓑田に声を掛けた。
「蓑田、絶対、お前に回す。だから……、」少し涙声だった。「絶対、去年の借りを返せよ」
「う、うん」
「これまで……、いろいろごめんな、ありがとうな」
「う、うん、こっちこそ、ありがとな」
 下山はバッターボックスへと小走りで向かった。バッターボックスに立ち、昌徳高校の三宅投手に向かって声を張り上げた。
「うっしゃー、こーい」
 相手ピッチャーがサインに頷いて、セットポジションに入った。少し間をおいてから初球を投げた。
 下山は初球から積極的に打ちにいった。積極的に初球から打ちにいくところが下山の魅力だ。
 しかし、下山のフルスイングも低めスライダーに空をきった。相手ピッチャーは相変わらずスライダーがよく切れている。この試合、このスライダーに友野高校の選手は、ずっと苦しめられていた。
 下山は肩を上下してから息を「フーッ」と吐いて顔の前にバットを立てて目を閉じていた。
「絶対に蓑田に回す」バットに願いを込めた。
 また、相手投手に向かって声を張り上げた。
「うっしゃー、こーい」
 二球目は外角ストレート。バットが出かかったが、寸前で止まった。きわどいが少し外れている。ボールだ。
「よーし、ボールだぁ」
 三球目は内角へストレート。厳しい球にバットが出ない。ストライクだ。追い込まれた。あと一球だ。
「くそーっ、厳しいナイスボールだぁ。絶対に打つぞぉ」
 下山は、一度バッターボックスを外し素振りを繰り返してからバッターボックスに戻り、足元をならした。
「よーし、絶対、打つぞー」
 四球目、スライダーがきた。ストライクゾーンから低めへ鋭く曲がる。下山のバットは止まらない。下山の体制は完全に崩されたが、必死で食らいつく。
「ファール、ファール」審判が両手を上げる。
 かろうじてバットに当て、ボールはキャッチャーの足元に転がっていた。
 甲子園球場の観客がざわめいた。
『なかなか、おもしろなってきたな。こんな試合は、やっぱりわしの出番やな。魔物らしいこと、どっかで何かしたくなってきたわ』
「下山、ナイス粘り~」蓑田は叫んだ。
「おーぅ、絶対に打つぞぉ。蓑田、しっかり準備しとけよぉ。お前下手くそなんやからなー」
 五球目、また、あのスライダーが外角にきた。少しコースは甘い。下山は体制を崩されたが、なんとか食らいついて引っかけるようにバットに当てた。
『下山君、打ったぁ。打球は三游間へのゴロ。面白いところに飛んだ~。ショート菊田君、回りこんでよく追い付いた~。深い位置から一塁へ~。タイミングはきわどい~。アウトか? セーフか?』
 下山は俊足だ。ヘッドスライディングでファーストベースに飛び込んだ。ファーストベース付近に甲子園の土が舞い上がる。下山の顔と胸は真っ黒になっていた。一塁ベース上で横たわったまま、右手を横に広げてセーフのアピールしている。
 そして、審判の手が大きく横に開く。
『セーフ、セーフ、セーフだ~。下山君、執念のヘッドスライディングだ~。まだ友野高校の夏は終わりませ~ん』
 下山は起き上がり、蓑田に向かって、真っ黒な顔から白い歯を覗かせて右腕を突き上げた。
 蓑田は、それを見て何度も何度も頷いた。「下山、すごいよ」熱いものが胸のなかで暴れている。そして大きく息を吐く。
「絶対に去年の借りを返す」
『九回裏ツーアウト満塁。一打逆転のチャンスがやってきました』
 下山の執念に絶対にこたえるんだ。
 昌徳高校がタイムをとり伝令がマウンドに向かった。
 蓑田はこれまでの厳しい練習や下山と口論を繰り返してきたた一年間を思い出した。バットに願いを込めるように顔の前にバットを立てた。
「打たせてくれ」バットに向かってそう呟いた。
 マウンドに集まっていた昌徳高校の選手の輪が解かれていった。昌徳高校の選手達はみんな笑っていた。
 蓑田も笑顔をつくってから、バッターボックスに向かった。
「よーし、こい」ピッチャーに向かって声を張り上げたが下山ほどの迫力はない。少し声が震え、そしてその後、足がガクガクと震えだした。
『バッターは蓑田君。沢井さん、ここではバッターの蓑田君はどういうことを心掛ければいいでしょう?』
『そうですね、決してボールに手を出さないことですね。ここまで苦しめられた低めのスライダーを見極めることが出来るかでしょうね。それを見極められると満塁ですからバッテリーは厳しくなりますからね』
『蓑田君はここまでヒットはありません。ここで初ヒットが出れば、同点、もしくは逆転サヨナラという場面です』
 ピッチャー三宅がセットポジションに入る。
『ピッチャーの三宅君、第一球を投げました。アウトコース低めのスライダー』
 蓑田は頭の中が真っ白のまま、初球を打ちにいった。低めのワンバウンドする明らかなボール球に空振りした。
『完全なボールのスライダーに蓑田君、空振りです。沢井さん、手が出てしまいましたね』
『そうですね、この球を見極めないと、蓑田君、厳しいですよ。少し力を抜いた方がいいでしょうね』
「こらー、蓑田、お前、相変わらず下手くそやなぁ。下手くそのくせしてビビってんじゃねえよ」下山がファーストベースから叫んだ。
「うるさいな」蓑田が下山に返した。
「やかましい、下手くそ、お前がヒット打てるなんてみんな思ってないから、とりあえずバットに当てるくらいしろよ。当てれば何が起こるかわからんからな」
「下手くそ下手くそって、一年間聞き飽きたよ」蓑田の口から白い歯が覗いた。
『三宅君、二球目を投げました』
 真ん中高めに外れてボール。
 そして、三球目は内角ストレートをファール。
 四球目は低めのスライダーにバットが止まりボール。
『蓑田君、ここはバットが止まりました。沢井さん蓑田君、よく見ましたね』
『そうですね、少し落ち着いたようですね』
 五球目は三宅の方が力んで高めに大きく外れた。
 これで九回裏ツーアウト満塁スリーボールツーストライク、次が最後の一球になる。
『さぁ、泣いても笑っても最後の一球です。沢井さん、しびれる展開ですね』
『そうですね、ここはピッチャーもバッターも結果を怖れず思いきりプレーしてほしいです』
『さぁ、三宅君、セットポジションから第六球を投げました』
 外角のスライダーが少し高めにきた。蓑田はバットを出しにいく。とらえた打球はショートへ飛んだ。
『打った~。打球はショートへ。ショートの菊田君がとりにいく。あーっ』
 蓑田の打球は三遊間への打球。ショート菊田の守備範囲だ。これで友野高校万事休すと思った、その時だった。
『打球が菊田君の前ではね上がって、菊田君の出したグラブに当たりレフトへ転がっている~』
 三塁ランナーが同点のホームを踏む。そして逆転のランナーも三塁を蹴ってホームへ向かってくる。
『レフトがボールをとってバックホームするが、間に合わない。セーフ、セーフ、セーフだぁ。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~』
 一塁ベースを駆け抜けた蓑田は右腕を上げてガッツポーズした。下山も蓑田に向かってガッツポーズした。
『なんということでしょう。ショート菊田君の前でボールがはねてしまいました。やはり、甲子園には魔物が棲んでいまーす』

 試合終了後、蓑田は用具を片付けながら相手のベンチ前で泣きじゃくる昌徳高校一年生のショート菊田の姿を見ていた。去年の自分のことを思い出した。
「野球やめるなよ。きっといいことあるから」菊田の姿を見ながら蓑田は呟いた。
 球場に全員で一礼し、蓑田が球場の通路を歩いていると、しゃがみこみ俯いている菊田を見かけた。声を掛けようか悩みながら、菊田に視線をやった。
 すると菊田が顔を上げ、蓑田を見た。
「あっ、どうも。次の試合も頑張ってくださいね」菊田が立ち上がり笑顔を向けて右手を出してきた。
「あ、ありがとう」蓑田も右手を出した。本当にこいつ一年生かと思うくらい落ち着いていた。去年の自分とはえらい違いだと思った。
 蓑田は菊田になにか声を掛けてやろうと思った。
「実は、去年の俺たちの試合、俺の暴投で負けたんだよ」
「あっ、知ってます」菊田の日に焼けた真っ黒な顔から白い歯が覗いている。
「えっ、知ってるんだ」
「はい、VTRがテレビで何度も流れてました」
 蓑田もテレビで流れているのは知っていた。
『あのエラーから一年、友野高校は忘れ物を取りに甲子園に帰ってきた』そんな内容で放映されていた。
 しかし、蓑田はその映像を観たくなかったので、詳しくは知らない。
「俺の暴投が流れてるのかー。ちょっと恥ずかしいな」
「ええ、僕は何度も見ました。打球に追い付くまでは、すごく素早くてグラブさばきも完璧だったのに、なぜかファーストへ投げる瞬間、体がファースト側に正面に向いてしまって、ギクシャクした動きになってましたよね。ボールをとってから慎重になりすぎたみたいに見えました」
「そ、そうかな」自分ではわからなかったが、そんなにギクシャクしてたのか。それに、なんなんだ、この一年生は? すげえな。俺よりしっかりしてるじゃないか。
 けど、ここは、先輩らしくアドバイスしておこう。
「で、さぁ」
「あっ、はい」
「俺は、あの暴投で野球をやめようとも思ったんだけど」
「えっ、そうだったんですか」
「うん、でもな、みんなのおかげで野球を続けられた。そして、成長できたよ。だから菊田君も今回のエラーで落ち込んで野球をやめるなんて思わないで、来年取り返すつもりで頑張ってな」
「ありがとうございます。俺、日本一のショートになりますから。イレギュラーしたくらいでエラーしないように、明日から練習に励みます」白い歯をさっきより大きく覗かせていた。
「あっ、そ、そうか。が、頑張ってな」


夏のあとがき

『打球は三遊間深いところ、ショート菊田、ボールはイレギュラーしましたが軽快にさばいて深い所から一塁へ。スリーアウト、チェンジ。さすが、ゴールデングラブの菊田の守備です。ヒットゾーンの当たりも難なくさばいてみせます』
「すげえな菊田。俺も菊田みたいな選手になりたいな」翔はプロ野球で活躍する菊田選手のプレーに目を輝かせていた。
「菊田も俺のおかげで立派になったなぁ」蓑田はソファに腰掛けたまま、翔に聞こえるように呟いた。
「えっ、お父さん、菊田選手と知り合いなのか」
「ハハハ、まぁな。高校の時、甲子園で対戦したんだよ。菊田がエラーして落ち込んでたから、ちょっとアドバイスしてやったんだ」
「うそだろ」翔は目を大きく見開いた。
「うそじゃないよ、本当だよ」
「それ、本当なら、すごいよ」
「ハハハ、翔はお父さんのこと見直したか?」
「うん、感動」
「翔に感動してもらって父さんも嬉しいよ」
「お母さん、お父さんが菊田と対戦して、アドバイスしたこと知ってるの?」
「対戦したのは知ってるけど、今活躍してるのがお父さんのアドバイスおかげかは怪しいけどね」
「いいや、菊田はあの試合でエラーして野球をやめるかもしれなかったんだ。俺のアドバイスのおかげで野球を続けてるんだって。俺に約束したんだ。野球をやめないで日本一のショートになります、そう言ったんだ」
「そうかなぁ。菊田選手は、あなたと違ってそんな柔なタイプじゃなかったと思うけど」
「いーや、俺が見た時、菊田は泣きじゃくってたんだぞ」
「あなただって、その前の年にエラーして落ち込んでたじゃない。わたしが声掛けてなかったら、野球やめてたでしょ」
「いや、そんなことないよ。ちょっと悩んだだけで野球は続けてたよ。里美こそ俺に声掛けるチャンスだと思ってたんじゃないのか」
「ふん、なに偉そうに言ってんの。わたしはあの時、全くそんな気で声掛けたんじゃなかったからね。監督に頼まれたから、仕方なく声掛けたんだからね」

『おいおい、子供の前やぞ。夫婦喧嘩するなよな。どっちにしろ、すべては、わし、甲子園の魔物がお前らを成長させるためにやったことや。菊田はあの試合でわしのイレギュラーのイタズラに対応出来なかったけど、その後ポジティブにとらえて練習に取り組み、今の菊田選手がいる。蓑田はフラフラしたけど、周りの仲間に支えられながら成長して、周りの有り難さに気付くことができた。わしも計算外やったけど、監督が蓑田に送りこんだ刺客と結婚して幸せになったしな。まっ、全てうまくいったわ。皆も、これから、わし甲子園の魔物があらわれたら、ネガティブにならず、成長するチャンスがきた思うてポジティブにとらえてや。それが甲子園を面白くして素晴らしいものにすることになるんやからな。よろしく頼むな』